彼までの時間

written by かほ

飛行機の中で、私の気持ちは急いていた。
ハクの誕生日が終わるまであと3時間。なのに、乗った飛行機には今時、通信サービスがついていない。日付が変わる前に、お祝いのメッセージを伝えられるだろうか。
何ヶ月も前からこの日を楽しみにしていたのに、海外出張が入った。
うちの会社が作ったドキュメンタリーの授賞式に出席するためだったから、どうしても社長の私が行く必要があった。会社のみんなで作った作品が国際的に評価されたのは名誉なことだし、本当に嬉しかった。いろんな人との意見交換も刺激になった。
でも、それでハクの誕生日を祝えないというなら、悲しすぎる。
私が言わないと自分の誕生日を忘れてしまうような人だから、ハク自身は気にしていないに違いない。実際、出張が入って一緒にお祝いができなくなったことを連絡すると、祝いたいという気持ちだけで十分だ、そう言ってくれた。それが彼の本心であろうことはわかっている。だけど、それでは私の気が済まない。
飛行機が恋花空港に着陸しても、時間が気になって仕方なかった。
スーツケースが出てくるのを待ちながら、ハクに電話してみた。日付が変わる前に、どうしてもおめでとう、そう言いたかった。
ひょっとしたらもう寝ているかもしれない。それとも、急な任務が入ったかも。コールの音を数えながら不安な気持ちでいると、不意に通話が繋がった。こちらが声をかける間もなく聞こえた「着いたか」という優しい声に、さっきまでの不安が跡形もなく消えていく。
「うん」
「外で待っているから急がなくていい。ゆっくり出てこい。家まで送る」
それだけ言うと、ハクは通話を切ってしまった。こういうところも彼らしい。
今日帰るとは連絡したけれど、フライトの時間までは教えていない。カンヤに訊いたのだろう。忙しいのにわざわざ迎えにきてくれたそのことに、心が温かくなる。何より、誕生日のうちに、直接お祝いを言えることがうれしい。
カートを押しながら税関から外に出ると、正面に目を引く長身の男性が立っていることに気づいた。顔を見なくてもわかる。ハクだ。
私が気づいたのがわかったのだろう、ハクは私にしかわからない微かな笑みを浮かべると、すぐに私の方に歩いてきた。私の手からカートのハンドルを自然に引き取り、そのまま押してくれる。
誕生日おめでとう、息せき切ってそう言った私の声は、お帰り、という彼の声と重なってしまい、ハクと私は顔を見合わせて笑った。出張の間、ずっと彼に会いたいと思っていた。だけど、実際にこうして会うと、どんなに彼を恋しく思っていたかが改めてわかる。
「おまえがいなくて寂しかった」
ハクも同じように思っていてくれたとわかり、うれしくなる。
「私もだよ。これ、お土産」
手荷物の中に入れていた紙袋を渡した。ハクは紙袋をカートの上に載せながら、
「おまえが帰ってきてくれたことが一番のお土産だ」
そう言って、私の額に軽くキスをしてくれた。
「誕生日プレゼントは家に用意してあるから、後で渡すね。それから、ハクの次のお休みの日に、絶対今日の埋め合わせをするから!」
「忙しいんだから、無理するな。俺はおまえがいてくれればそれでいい」
ハクはあくまで優しい。絶対、最高のお祝いをしようと決意を固めながらコンコースを歩いていくと、グランドピアノがぽつん、と置いてあるのが目に入った。何年か前から流行っている空港ピアノ、というやつだ。行きのフライトは昼間だったからピアノの周りには人だかりができていたけれど、今は遅い時間のせいか、天板と鍵盤の蓋は閉じられ、辺りには誰もいない。
私の視線に気づいたらしく、ハクは私の方を見た。
「もう1つ、誕生日プレゼントを貰ってもいいか?」
昔のハクは何を訊いても、おまえが好きなものでいい、そう私に合わせるばかりだった。それが彼の優しさなのはわかっていたけれど、自分のやりたいことを口にしない彼にやきもきしたこともあった。だけど、最近の彼は自然に自分の希望を口にしてくれる。私に気を許してくれている、そう感じられてとてもうれしい。
私は彼の方を見ると、晴れやかに笑い、頷いた。
「ハクの好きな曲をなんでも弾くよ」
「じゃあ、あの曲を頼んでいいか。高校生のときに弾いていた曲……」
どの曲か、すぐにわかった。
「最後まで弾けなかったあの曲?」
「ダメか?」
少ししょんぼりした顔をしたハクに、首を振る。
「何となく譜面は覚えてるけど、楽譜がないし、また、最後まで弾けないかもしれないよ。それでもいい?」
「構わない。おまえのピアノの音が好きなんだ」
口下手なようでいてこんなことをさらりと言ってくれるハクに私が返せる言葉は、意外に少ない。
私はピアノに近づくと天板と鍵盤の蓋を開け、椅子の高さを確認して腰掛けた。鍵盤に指を置いて音を確かめる。偶然にも音楽室にあったものと同じメーカーのピアノで、音も何となく似通っている気がする。
ハクに微笑みかけると、私はゆっくりとピアノを弾き始めた。いつかハクに聞いてもらいたい、そう思って最近も何度か練習していたせいか、思ったより指が自然に動いた。無心になって弾いていると、頭の中で金色のイチョウが舞っている気がした。
懐かしい風景。高校生のとき、音楽室でピアノを弾いている時間が一番好きだった。
時々、考える。
高校生のとき、彼を好きになっていたらどうなっていたのかと。
高校生の彼はあまりにも何も語らず、私も目の前の彼ではなく彼についての悪い噂を信じていた。
もし彼がもう少し私に言葉をかけてくれていたら。
もし私が彼に噂の真偽を確かめる勇気をもっていたら。
私たちはつき合っていたのかもしれない。
――曲はいつも引っかかる難所に差し掛かっている。
いつも左手がわずかに遅れて、指がもつれていた。無心にメロディに左手を添わせると、音がぴたっと合って、曲の奥行きが広がっていく。
夢中で弾いているうち、とうとう最後の音を奏で終わった。7年越しでようやくこの曲を弾き切ったことに、思わず放心してしまう。
いつの間にか近づいてきたハクが、後ろから私の体を抱きしめてくれた。
「ありがとう。最高のプレゼントだ」
耳の後ろから響いてくるハクの声がくすぐったい。
その声を聞いていると、起こらなかったことについてやきもきする必要はない、そう思えた。
ハクも言っていた。また巡り会えたからいい、と。
高校生の私には、ハクは理解できなかった。今の私もハクを完全に理解しているとは言えないだろう。だけど今の私はハクに、彼が何を考えているか教えて、そう言うことができる。私が彼に近づくには、この7年が必要だったのだ。
「もう1つ、プレゼントをもらっていいか?」
振り向いたわたしの唇を、ハクが自分のそれで優しく塞ぐ。
12時を告げる時計の時報の音が、人影のまばらなコンコースに鳴り響いていた。



ハク担ですが、初めてハク主のSSを書きました。特に甘々な話ではないのに、この二人、書いているだけで幸せな気持ちになりますね。二人に幸せな未来が待っていますように。ハク、お誕生日おめでとう!