マリッジ・ハニー・ブルー!
本編34章のハク先輩の所属周りについてのネタバレがあります。 こちらを読むにあたっては未読でも全く問題ない程度ですが、デート「グルメ」の内容に一部触れています。
今年入隊してきたばかりの新人に一人、他の奴らとは違う空気を纏う隊員がいた。
聞けば、幼い頃にEvolverの起こした事件で両親を失ったのだと言う。記憶にも新しい、少しまで俺が指揮官と仰いでいた、ロマンスグレーの髪を左右に撫でつけ一切の他者を拒むように冷たい目をしていた、”あの男”と同じ境遇だ。
だが、その新人隊員はあの男とは決定的に違っていた。時に危うく感じるほど真っ直ぐな正義の心を持っていて、周囲に作った壁はそんな彼の心を守るためのもののように思えた。日々真面目に任務をこなしながらも、他の隊員達と距離を置いていつも鋭い目をしているその隊員に、つい数年前までの自分を重ねてしまうのは自然なことだった。
だから、それを分かっていながらあの時止められなかったのは、俺の落ち度だった。
その日は指名手配中のEvol犯罪者の追跡で、例の新人隊員を含む、俺の率いる小部隊が出動していた。Black Swanの組織の規模には到底及ばないが、Evolverが弾圧されたあの一件以来、憎しみを募らせた者がグループ化して凶行に走るという事件が断続的に起こっている。今回の犯人は複数人の傷害罪でマークされている、俺と同じ風を操るEvolverだった。
追い込むまでは順調だった。周囲に危害を加えないよう人気のない郊外へと誘導し、犯人が解体途中の廃ビルの中に逃げ込むまでは想定の範囲。想定外だったのは、きっと探検気分だったのだろう、立ち入り禁止の看板を無視して侵入していた小さな子どもが、人質に取られてしまったのだ。それを見た途端、頭に血が上ったらしい。「一人で深追いするな」と言った俺の制止を振り切り、その新人隊員が単独で飛び込んで行ってしまった。
新人ながら彼は同期の隊員達から頭ひとつ抜けて強かった。だが、致命的に実地経験が足りなかった。小さな人質をもろともせず急襲をかけてきた隊員に、取り乱して人質を放り出した犯人があっという間に押さえつけられる。終わったと誰もが思ったその瞬間、窮鼠猫を噛むとはよく言ったもので、犯人の周りでこれまでとは規模が違う衝撃波のような突風が巻き起こった。不意打ちで吹き飛ばされた彼の体が、鉄骨や折れた廃材の山に向かって投げ出される。
あのままぶつかったら無事では済まないだろう。風を起こしたとしても、位置的に直撃は止められそうにない。
ああ、考えなしに突っ込むなと叱ったのは誰だったか。一直線に飛び出した俺は、抱き抱えた部下もろとも廃材の山に突っ込んだ。
瞬時に目測をつけて致命傷になりかねない危険な場所を避け、クッション代りに起こした風でぶつかる際の衝撃はかなり緩和されたとはいえ、勢いよく打ち付けた背中に重い痛みが広がる。
「指揮官……!」
いつも鋭く冷めた顔をしている部下が、目を見開いて俺を見ている。
年相応なその顔に「無事で良かった」と安堵したところまでは覚えている。と同時に、今朝「いってらっしゃい」と微笑んでくれた彼女の声が蘇って。
ああそうだ、そこで俺の意識は途切れたのだった。
そして現在、目の前には真っ白な見知らぬ天井が広がっている。ぼんやりとそれを眺めながら、自身の不甲斐なさにため息が出た。
職業柄、こうして目が覚めたら目の前に見知らぬ天井が広がっていた、というのは初めてではない。ここが病院であるということはすぐに分かった。どうやら俺はあの後気を失ってしまったようだ。
「ハク……!!」
すぐ傍でガタンと椅子が倒れる音がした。暖かで俺よりもずっと小さく繊細な手のひらにぎゅっと手を握られて、ぽたぽたと頬に雫が落ちてくる。真っ赤に泣き腫らした彼女の瞳を見たその瞬間、鈍く痛んでいた頭の怪我も仕事用に巡っていた思考も彼方に吹き飛んで、胸の中は彼女を悲しませてしまった罪悪感でいっぱいになった。
「わ、悪かった……」
「悪かったじゃないでしょ、バカ!!」
ほとんど嗚咽のような声で叫んだ彼女の涙がぽたぽたと首元に落ちてくる。それ以上は言葉にならなかったのか、引き結ばれた小さく震える唇からは時折押し殺した苦しげな呼吸が漏れていた。
騒ぎを聞きつけたのか病室に入ってきたジュンが、少し目を見開いてから労るように彼女に何か話しかけると、真っ赤に泣き腫らした目のまま力なく頷いた彼女は、何も言わずに病室から出て行ってしまった。
「……ジュン」
「人質にされていた子どもは無事。おまえが守った新人隊員もほぼ無傷。犯人は問題なく捕まった。彼女にはもう夜遅いから帰ってゆっくり休んだ方がいいと伝えて、部下に家まで送らせた」
「他に何が聞きたい?」とさっきまで彼女が座っていた椅子に腰掛けるジュンに、軽く首を横に振る。任務にあたったのは昼間だったが、どうやら俺は気を失ってそのまま夜遅くまで眠っていたらしい。
ゆっくりと体を起こしていると、バタバタ足音が聞こえたかと思ったら、青ざめた顔の新人が飛び込んで来た。頬に大きなガーゼが貼られている以外、特に目立った怪我はなさそうだ。つられた様子で数人の部下達が病室を覗き込んで、口々に良かったと騒ぎ始めた。
そんな平和な光景に安堵しながら「静かにしろ」と小言を言ったのも束の間、突然乱暴に肩を押され、固く薄い病室のベッドにどさりと押し倒される。
思いがけないその行動に抵抗する間もなく、怪我を負ったばかりの患部を再度ぶつけた衝撃でズキズキと頭が痛みを訴えた。
「おい、ジュン、」
「彼女には絶対に言うな」
見開かれた三白眼が有無を言わせない威圧感を放っている。それは校舎で対峙したあの時よりも、静かで有無を言わせない殺気だった。思わず気圧されて言葉を失った俺に、いくらか気が晴れたのだろう。
「……って、頭からダラダラ血を流してるお前に物凄い形相で脅されて、その直後にお前はパッタリ気を失ったんだとよ」
ニコッと普段通りの笑顔を浮かべたジュンが指さす先で、例の新人隊員は青ざめた顔でナースコールのボタンを押していた。
半分閉じかかったドアの向こう、「お前らほんと俺には懐かないよな?!」と抗議の声を上げているジュンが、さっそく「静かにして下さい!」と叱責されながら看護師に引きずられて行く。
ピシャリと閉められた扉の向こうにジュンが消えたことで、病室は再び静けさを取り戻した。
「……許してやってくれ。あいつもあれで優秀なんだ」
「一応うちの隊の隊長なので知っています……時々非常に認めたくない気分にもなりますが……」
げんなりと締め切られた扉を眺めてから、ジュンの隊の副隊長である青年は気を取り直すかのようにキリリと表情を引き締めて、生真面目に敬礼をした。
「では私もこれで。後処理は我々でしますので、どうぞゆっくりご療養なさって下さい」
扉を開けるや否や、さっき見た時よりも廊下に溢れており病室を覗こうとしていた隊員達に、「撤収!撤収!」と声をかけながら颯爽と去って行く後ろ姿を見送る。元はと言えばサカキの采配ながら、上手く出来た編成だ。
そうしていつの間にか病室に残されたのは、俺と昔の俺によく似た例の新人隊員だけになっていた。
「……申し訳ありませんでした」
「今回の件で懲りただろう。人質の子どももおまえも無事で良かったよ」
だんだん思い出してきた。そうだ。気を失う寸前に、確かに俺は「彼女には言うな」と薄れかかった意識の中でこいつに言った。
目が覚めてから何度目になるか分からないため息を零す。その途端ビクリと肩を震わせた新人隊員に、内心しまったと思ったがもう遅い。ジュンの言葉通りなら、余程俺は威圧的な態度で脅すように言ったのだろう。これ以上部下に情けない姿を晒したくはなかったが、こうなってしまっては仕方がなさそうだ。
「……実は今日、結婚1ヶ月の記念日なんだ。だから家でお祝いの支度をしてる彼女を心配させたくなかったんだと思う。結局こうして気絶して運ばれて心配させてしまったんだが……。半分無意識だったとはいえ、おまえを脅すような真似をして悪かった」
サッといっそ面白いくらいに血の気が引いた顔で新人隊員が絶句する。俺にとっては痛い経験になったが、こいつにはいい薬になっただろう。
「……すみません、指揮官。……俺、」
「反省したんだろう?分かったから、今日は早く帰って休め」
渋る彼を半ば追い出すように返して、「そろそろお話ししてもいいですか?」と入れ替わりで訪ねてきた医師を迎え入れる。
もう時間も遅いし念のために一晩入院したらどうかと言われたが、口ぶりを聞く限り心配するほどでもない様子なので、礼を言って病棟を出ることにした。
建物から一歩出た途端に、むわりと蒸し暑い空気が体を包み込む。外では夏の星座が夜空に淡く浮かんでいる。それを眺めるために軽くそらしただけでズキリと鈍く痛んだ頭に、少しばかりうんざりした気分になった。この程度で済んだのは幸運だったと喜ぶべきなのだろうが、しばらくはこの痛みと付き合うことになりそうだ。
「なんだ、まだ居たのか」
すでに正面入り口が閉ざされた病院の夜間入り口の前にしゃがんでいたジュンが、足音に気付いたのかふらりと立ち上がる。「寝とけって言っても本部に戻るんだろ?」と白い目をした彼が車のキーを揺らすのを見て、つくづく長い付き合いになったものだと思わず笑ってしまった。
「向こうに着いたらうちの副隊長に怒られるぞ、俺が」
「何でおまえが」
「共謀罪で現行犯。ったく、最近の若手は年功序列ってもんを知らないのかね」
「それはおまえのそういう態度のせいだろう。礼儀正しい隊員だと思うぞ」
「怪我人のくせにご高説をどーも。それにあいつがお前に怒るわけないだろ。せいぜい無茶はするなって文句言ってくるくらいだって」
不意に饒舌だった言葉が途切れて、飄々としていたジュンの表情が真剣なものに変わる。送迎よりもこっちが本題だったんだろうなと頭の片隅で考えながら、見かけよりもずっと生真面目な旧知の顔を俺も静かに見つめ返した。
「お前が昔みたいに後先考えず体を張るような真似をしなくなったってことは、俺も、きっと彼女もちゃんと分かってるよ。でも無意識に染み付いた癖は抜けないからな。あの新人がおまえの言葉を馬鹿正直に守るもんだから、俺が連絡するまで彼女は何も知らずにおまえの帰りを待ってたんだぞ」
「……反省してる」
「……ま〜、ほどほどに頼むよ。お前は真面目すぎるから」
「は、お前に言われるとそんな気がしてくる」
「誰が不良警官だ」
「そうとは言ってないだろ」
「いーや、言ったね。態度が言ってた。俺の周りは敵ばっかりだ」
軽快な言葉の合間に、軽快な声のまま旧知の視線が俺を向く。
「ちゃんともう一度謝っとけよ。彼女、凄く心配してたんだから」
目が覚めた直後、一番最初に彼女の涙を見た。俺にとって、あれ以上に堪えることはない。
いつになく優しい目をしたジュンに素直に「ありがとう」と返すと、急に照れ臭くなったのか、彼は少し雑に俺の背中をたたいて「さっさと仕事片付けるぞ」と笑った。
「ただいま」
犯人逮捕から一夜明け、芋づる式に見つかった他の犯人の捜査に追われていた結果、帰宅した頃にはすっかり夜が更けていた。
部屋の中は真っ暗だった。普段彼女が眠る時間にはまだ少し早いが、昨日あんな事があったのだし、今日は疲れて眠ってしまったのだろうか。起こしてしまわないようにそっとリビングへと向かい、部屋の灯りをつける。この部屋のほとんどはテーブルもソファもカーテンも、彼女が選んだ、彼女が好きな物で構成されている。不思議なほど俺にとっても過ごしやすいように出来ているこの空間は、足を踏み入れるたび帰って来たのだと強く感じられる、特別な場所だった。
そんな部屋の中心辺り。綺麗に片付けられたテーブルの上には、一枚のメモが置かれていた。
【しばらく帰りません。探さないでください】
ガタガタガタッ!
よろけた勢いでテーブルの足を蹴り、椅子が倒れ、足元に落として倒れたカバンから荷物が散らばる。
何だ?何が書かれて、……見間違いか?
そんなわけがないと分かっていながら思考は現実逃避を始めていたが、もう一度その死刑宣告に等しい紙を見る気には到底なれなかった。
おぼつかない足で何とか半ば座り込むようにしゃがみ、地面に散乱した少ない荷物をかき集めながら、そのうちの一つの床に転がったスマホを微かに震える手で拾い上げる。心当たりならある。大ありだ。むしろ昨日の一件でなければ他に何がある?
「もう一度ちゃんと謝っておけよ」
そう言っていたジュンの声がふと蘇った。
そうだ、現実逃避している場合じゃない。
謝ろう。いや、まずは話をしないと。
『おかけになった電話は現在、電波が届かないところに居るか、電源が切られています──』
無情な機械音声がスピーカーから繰り返し残酷な現実を突きつけてくる。うるさい。分かったからもう黙ってくれ。通話終了ボタンを押すと、さっきよりも部屋の静けさが重く肩にのしかかってきた。
ひらひらと手から滑り落ちた紙が、うなだれた俺の視界にふわりと滑り込んで来る。
新婚1ヶ月。
その記念日の翌晩、彼女は二人の部屋から出て行ってしまった。
『こちらの電話は現在使われておりません──』
夏の日差しで滲んだ汗を拭いながら、耳元で繰り返し流れるアナウンスを途中で切ること数回。何度目か分からない呼び出しボタンを押すか迷った俺は、スマホをしまい人気のない路地に降りた。
最近ではEvolverへの理解が広がりつつあるとは言え、さすがに白昼堂々とEvolで移動している姿を見られて騒動を起こすような真似は控えたかった。組織のトップが何度もネットニュースの記事になっていては部下に示しがつかない。
風で乱れた服装を適当に整えて、ふっと息を吐く。
──そして、路地の入り口を横切った人影を路地裏に引きずり込んだ。
突然のことに怯えと警戒の色を浮かべ、果敢にもギッと睨み上げてきたその人物は、俺と目が合った途端ポカンと口を開くと、開いたままの口から気の抜けた声を漏らした。
「わ、わぁ……俺、ハクさんに壁ドンされてる……」
「冗談を言う余裕があるようで何よりだ」
「俺が何を言いたいか、分かるよな?」そう言って睨む俺から視線を泳がせながら、カンヤは「ぜ……全然分からないなぁ……」とあまりにも白々しい嘘をついた。
「というか、ハクさんなら俺に聞かなくても、やろうと思えば探し出せるんじゃ……?」
「探すなと言われたんだから仕方ないだろう。これ以上彼女を怒らせたくはないしな。だが、お前から『偶然聞いた』なら話は別だ。いいから吐け」
「ハクさんにこんなこと言うのは俺としても本意じゃないんすけど、マジで勘弁して欲しいっす……」
どうやら言うつもりはないらしい。こいつが意外と義理堅いことは、何だかんだ長い付き合いなので良く知っている。これ以上引き止めたところで、きっと何も教えてはくれないだろう。
GPS付きのイチョウのブレスレットは、探した限りでは家の中になかった。加えてカンヤも彼女の居場所を知っているらしい。「探さないで下さい」とは言われたものの、もし万が一の時に探そうと思えば探せるように、彼女はちゃんと手がかりになる情報を残しておいてくれたらしい。……つまり、書き置きにもあった通り、そのうち帰って来るつもりではあると思っていいのだろう。
ため息をついて、無理矢理引っ張り込んだ時に落としていた封筒を拾って、軽くはたいてからカンヤに返してやる。
「まだドキドキしてる」と若干青ざめた顔で呟いていたカンヤは、それを受け取ると同情めいた目で俺を見上げた。
「ハクさん、俺はどんな時でもハクさんの味方ですから。今回はその、ちょっと例外だけど」
「うるさい。……仕事の邪魔して悪かったな」
「へへ、仲直り旅行をする際のプランニングは、二人をよく知る俺ことカンヤにお任せ下さい!」
「調子に乗るな」
こいつが結婚式で参列者が若干引くほどの号泣スピーチをしていたのは記憶に新しい。「心配しなくてもすぐ帰って来ますよ」というカンヤの慰めに、不覚にも少しばかり慰められてしまった腹いせで軽く睨むと、何が面白いのかカンヤは「いや〜!マリッジブルーってやつですよ!」とけらけら陽気に笑い声をあげた。
マリッジブルー。
新婚生活で生活環境が変わったことやパートナーとのすれ違いにより、不安や苛立ちに苛まれてストレスを感じることを言うらしい。
「すれ違いの末、新婚早々に離婚の危機に陥ることも──」そう書かれた記事を閉じながら、「最近無責任に不安を煽るような書き方をするネット記事が多いんだよね」と憤っていた彼女の言葉を思い出して、何とか早まる鼓動を押さえつけた。カンヤの奴が余計なことを言うせいだ。今度会った時にあいつは締めよう。
ジュンや部下達の計らいらしく、今日一日の仕事が取り上げられて急遽休みになってしまったのだが、彼女がいなければ休まるものも休まらない。
一番の手がかりが不発に終わってしまった今、いったん頭を冷やそうと仕方なく帰宅することにした。
誰もいない部屋に向かって「ただいま」を告げ、迎え入れてくれた生温い空気に苦虫を噛み潰したような気分になる。
マリッジブルー。
彼女はこの部屋に帰りたくないと思ったことがあるのだろうか。
……いや、余計な事を考るのは止そう。
喉を潤そうと冷蔵庫を開ける。そこに付箋が貼られたタッパーがぎっしり詰められているのを目の当たりにして、改めて罪悪感でギュッと胸が締め付けられた。
きっと結婚1ヶ月記念で作ってくれていた食事だ。これらを用意して一人俺の帰りを待っていた彼女は、一向に帰って来ない俺を待っていた時、そして随分前に病院に運ばれたと聞かされた時、いったいどんな気持ちだったのだろう。
一番手前にあったタッパーを取り出すと、彼女の文字でそう書いてあった。
『蓋をせずに電子レンジで温めて食べること!』
彼女らしい綺麗な字だ。あまり食欲はなかったが、言いつけ通り蓋を外して電子レンジの中にタッパーを入れる。
時間はどれくらいだろう?まあ様子を見て適当に取り出せばいいか。開始ボタンを押して、音を立て始めた電子レンジのそばで再び付箋に目を落とす。これを書いたのはきっと病院から帰って来た後だろう。泣いて怒って、それでもこうして俺のことを思いやってくれる彼女の気持ちが、とても嬉しく愛しかった。
せっかくこれだけ作ってくれたのだ。出来れば一緒に食べたかった。付箋に書かれた文字を指でなぞりながら、キッチンカウンターにもたれかかる。
ボンッ!
感傷から引き戻されるのは唐突だった。電子レンジからあってはならない爆発音に飛び上がりながら、慌てて停止ボタンを押し、おそるおそる扉を開く。想像通り、そこにはジャガイモだったものが見るも無残な姿に変わり果ててしまった、凄惨な事故現場が広がっていた。ふと見ると、付箋の裏側に米印つきで注意書きが書き足されていた。
『※ジャガイモが爆発しちゃうから温め過ぎないこと!』
「そういうのはもっと分かりやすく書いてくれ……」
ため息をつきながら、思わず笑みが溢れる。初めて二人で料理を作った時は、これ以上にひどい有り様だった。
やっぱり早く迎えに行こう。あの時も彼女が俺のために作ってくれたというだけで十分心が満たされたけれど、今は文句のつけようがないくらい美味くなっている。せっかくのご馳走様を一人で食べるのはあまりに味気ない。爆発を免れた料理を食べながらある場所に連絡を入れた俺は「ご馳走様」と一人呟いて、帰って来たばかりの家を再び後にした。
「指揮官!」
特殊部隊の基地に到着すると同時に駆け足で向かって来る人影が見え、管理室に向かおうとしていた足を止める。昨日の任務で俺もろとも勢いよくぶつけてしまったせいか、イチョウのブレスレットの発信機はずっと彼女と俺の暮らすあの部屋を示していたのだ。
頬のガーゼが不恰好でいつもより幼く見える例の新人隊員は、責任を感じているのかいつもの鋭い眼差しは影を潜め、必死な表情を浮かべているのもあって、年相応の青年に見えた。
何となく弟でも見ているかのような気分になって、思い詰めたように口をつぐむ彼に、幾分柔らかい声になるよう心掛けて「どうした?」と続きを促す。
「あの、俺のせいで奥様に出て行かれたと聞いたので……」
「誰からだ」
視線を上げると同時にサッと物陰に隠れた頭が数個。面白がりやがって。顔は全部覚えたからな。
「それで、特殊部隊の隊員達にパートナーとの仲直りの方法を聞き込んでみました」
「……」
「贈り物をする、とにかく低姿勢で謝る、好きな場所に連れて行ってプレゼントをする、反論せずにひたすら謝る、あとは」
「……分かった、分かったからもういい。…………ありがとう。気持ちだけ受け取っておく」
要するに、この新人隊員に俺と彼女のことを吹き込んだ人物がいて、それを聞いた彼が責任感から周囲に聞き込みをし、内容が内容なので俺の状況を察されてしまったのだろう。
つかつかと物陰に歩み寄って、「やばい、こっちに来るぞ」「逃げろ逃げろ」と騒ぎ立てている野次馬のうち、さっき一番隠れるのが早かった奴の首根っこを捕まえる。GPSの発信が途絶えていないことを確認するために、俺が彼女の家出騒動を話した相手といったら一人しかいない。
「ジュン」
「はは……やっぱりバレるよな。あいつ、多少みんなと仲良くなれたみたいで良かっただろう?」
「ほんと昔のおまえそっくりだよな」
そう言ってパチンとウインクした確信犯の顔があまりに清々しく憎たらしかったので、「そうだな」と言いながら俺は遠慮なく拳を振り下ろした。
目まぐるしい二日間だった。正確に言えば俺は半日気を失っていたので一日と半日だが、体感としてはとても長く、そして忙しない二日間だった。
鍵が開いたままのドアを開け、電気がついている部屋の中に足を踏み入れる。GPSが示していたのは故障でも見間違えでもなく、入れ違いのように俺が出て行ったばかりの、俺と彼女の家だった。
「おかえり」
「わっ、びっくりした……!」
よほど真剣に考え込んでいたのか、キッチンで難しい顔をしていた彼女は、俺に抱きしめられた途端びくりと肩を跳ねさせた。柔らかな髪も、細い肩も、たった二日間離れていただけなのにとても懐かしいものに感じられて、ようやく本当の意味で帰って来られたような気がした。
「ただいま」
「悪かった。すごく反省してる」
「分かってるよ。きっとそうだろうなと思って、後悔して早めに帰って来たの。私こそ、せっかくの記念日に家を飛び出してごめんね」
「おまえは悪くない。俺が、」
「分かったから。……お医者さんにも聞いたけど、怪我は大丈夫なんだよね?」
「ああ。もうすっかり良くなってる」
俺の顔をじっと見つめ、薄く涙の滲んだ目で「良かった」と言って、誤魔化すようににこりと笑う彼女の姿に胸が締め付けられる。
腕に込めていた力を少し強めると「痛いよ」とくすくす笑う彼女の声を聞いているうちに、不思議と強張っていた心の奥から力が抜けていくのを感じた。
怪我をするよりもよほど恐ろしい経験だった。もう二度と味わいたくはない。
「カンヤから連絡があったの。『マリッジブルーなんて退屈な事はさっさと切り上げて、ハクさんのところに帰ってやれ』って。だからハクと私は隠し事はしないって約束してるから、マリッジブルーとは無縁だって言っておいたよ」
「そうか」
「そうしたら『じゃあ何で家出したんだ』って」
「……悪、」
「あ、あーあー!そ、それに!せっかく上手に出来たご馳走様をハクが食べてくれている姿を見ないのは、すごくもったいない気がしたの!そうだ。冷蔵庫にあったジャガイモの料理、どうだった?」
空になった容器が水に浸してあるシンクを指さし、澄んだ目で尋ねる彼女の姿に、出かける前にちゃんと掃除しておいて良かったと心底思いながら「美味かったよ」と答えると、彼女は「そうでしょ!」と満足気に胸を張った。
「メインが一品なくなっちゃったけど、料理ならまだまだあるから」そうブツブツ呟いていた彼女が、はっと思い出したように再び俺を見上げる。目まぐるしく変わるその表情につられて笑みを浮かべると、彼女は少し頬を染めてくすぐったそうに笑った。
「ケーキの盛り付けを考えてたんだけど、こっちとこっち、どっちが良い?」
後ろから抱きしめた体勢のまま、彼女の指さす先を覗いて見る。そこにはケーキのイラストとメモが描かれた用紙が2枚並んでいた。どうやら難しい顔で考え込んでいたのは、これのどちらを採用するかで迷っていたらしい。
「どっちも可愛いと思う」
「もう、ハクは何を聞いても毎回そう言ってるじゃない」
「おまえが選んだ物だから本当にそう思ってるんだ。……けど、どちらかと言えばこっちだな」
きょとんと目を丸くした彼女が、「じゃあこっちにしよう!」と明るい声で俺に笑いかける。
「ハクも手伝って」と楽し気に真新しいお揃いのエプロンを取り出して、紐を結ぶために後ろに回った彼女を横目に、タッパーから外されて冷蔵庫の扉に貼られた付箋を一つ一つ目で追っていく。
彼女の文字で丁寧に綴られた色とりどりのそれらは、どれも料理の食べ方についてではあるけれど、世界中のどんなラブレターよりも真っ直ぐな愛の言葉のように感じられた。
ハク先輩お誕生日おめでとうございます!!!! 新章の本編や裏話を読んで、ジュンさんとの友情や特殊部隊の部下達とわいわいしているハク先輩が見たくて、あとハク主結婚してくれの気持ちが溢れたので、その辺りをドカドカ詰め込みました。 自身の信念に対する向き合い方も、愛情表現もいつだって真っ直ぐなハク先輩がとても好きです!幸せになってくれ!!!